定年退職した人から、ときどき「毎日が日曜日になった」という話を聞きます。
現役時代には、これほど魅力的な言葉はなかったかもしれません。朝早く起きて満員電車に乗る必要もない。会議もなければ、締切もない。上司から何かを言われることもありません。
ところが、本当に毎日が自由時間になってみると、自由というものは案外難しいものなのではないかと思います。
今日は何をするのか。
明日はどこへ行くのか。
これから何を目標にして生きていくのか。
誰も決めてくれません。
会社員時代には、自分で人生を決めているつもりでも、かなりの部分を会社が決めてくれていました。何時に起きるか、どこへ行くか、誰と会うか、何をするか。さらには、課長、部長、営業担当、技術者といった役割まで与えてくれました。
定年退職すると、それらが一度に消えてしまいます。
そう考えると、林住期というのは「自由になる時期」というより、むしろ自律を求められる時期なのかもしれません。
筆者:正木隆雄プロフィール
2003年 35歳のときに、定年退職者が地域で活動することを目的としたNPOの理事になる(現職)
43歳のときに不動産業で独立開業する。
現在は、不動産業とともに遺言・相続・終活専門の行政書士業を行い、地域の高齢者へ無料相談、セミナー開催を行っている。
今後は、地域の仲間×行政書士の仲間とともに単身高齢者の支援を行う計画である。
自由になった後に残る不安
若いころなら、「これから何者になるか」という目標を持つことができます。
仕事で成果を出したい。家を買いたい。子どもを育てたい。資格を取りたい。
ところが、林住期の人生では、そうした上昇型の目標だけでは、どうもしっくりこなくなってきます。
もちろん、新しい仕事を始めてもいいし、趣味に打ち込んでもいい。
しかし、「では、それを何のためにやるのか」と聞かれると、答えるのはなかなか難しいものです。
昔なら、宗教や家族、地域共同体といったものが、生き方の一定の方向を示してくれたのだと思います。
けれども日本人はそもそも宗教的な価値観を持っている人は少ないでしょう。
「こう生きるのが立派だ」という道徳についても、人によって考え方が違います。
社会の役に立つこと。
健康で長生きすること。
家族を大切にすること。
生きがいを持つこと。
どれも大切でしょう。しかし、それをすべての人に当てはまる絶対的な答えにしてしまうと、少し苦しくなります。
「社会の役に立たなければならない」と考え始めれば、定年後まで新しい仕事を探し続けることになります。
「生きがいを持たなければならない」と思えば、生きがいが見つからないこと自体が悩みになります。
自由になったはずなのに、今度は「充実した老後を送らなければならない」という新しい義務を背負ってしまう。
それも少し違うような気がします。
ニーチェの「神は死んだ」という言葉
こうした時代を考えるとき、ニーチェの思想が参考になるかもしれません。
ニーチェは「神は死んだ」という有名な言葉を残しました。
もちろん、単純に「神様はいない」と言いたかったわけではないでしょう。
むしろ、これまで人間の生き方を決めてきた絶対的な価値観が力を失った時代を表した言葉なのだと理解しています。
何が正しいのか。
何のために生きるのか。
それを誰かが決めてくれる時代ではなくなった。
そうなると、人間にはかなり厄介な問題が残ります。
「では、自分は何を頼りに生きればいいのか」という問題です。
これは、会社という大きな価値体系から離れる定年退職者にも、よく似た問題なのではないでしょうか。
会社にいる間は、売上、利益、昇進、評価といった分かりやすい物差しがあります。
退職した翌日から、その物差しが突然なくなる。
そして自分で物差しを作らなければならなくなる。
ここに林住期とニーチェが重なる部分があるように思います。
「超人」は偉い人になることではない
ニーチェには「超人」という言葉があります。
少し物騒な響きがあります。
強い人間になれ。
他人に勝て。
そんな思想のようにも聞こえます。
けれども、林住期の生き方として読むなら、もう少し違った受け止め方ができるのではないかと思っています。
誰かに与えられた価値だけで生きるのではなく、自分なりの価値をつくり、それを引き受けて生きる。
そういう人間像です。
特に、これまで「強くなること」を避けてきた人には、この考え方が意外に役立つかもしれません。
ここでいう強さは、人を言い負かしたり、地域活動でリーダーになったりする強さではありません。
むしろ逆です。
「みんながそうしているから」
「家族がそう言うから」
「世間から変に思われたくないから」
という理由だけではなく、
私はこうしたい。だからやってみる。
と決める強さです。
結果が思いどおりにならなくても、それを人のせいにせず、ある程度は自分で引き受ける。
これが林住期には大切なのかもしれません。
しかし、人生は自分の思いどおりにはならない
ただ、ここでニーチェだけを頼りにすると、少し疲れてしまうような気もします。
自分の価値をつくる。
自分で人生を決める。
自分の運命を引き受ける。
確かに勇気の出る考え方です。
しかし、林住期以降は、人生には「自分で決められないこと」が確実に増えてきます。
体力が落ちる。
病気になる。
親しい人が亡くなる。
家族の事情が変わる。
地域の人間関係も、自分の思ったようには動きません。
いくら強い意志を持っていても、人生そのものを支配することはできません。
そこで、老荘思想が必要になってきます。
変えられないものには老荘思想
老子や荘子の思想を読んでいると、「何とかしなければならない」という気持ちから少し離れることができます。
老子には「無為自然」という考えがあります。
何もしないという意味ではなく、無理に物事を動かそうとしない。
流れに逆らいすぎない。
私はそんなふうに受け止めています。
若いころは、努力すれば変えられることがたくさんあります。
勉強する。
働く。
技術を身につける。
しかし年齢を重ねると、努力ではどうにもならないことも増えてきます。
そこでなお、
「もっと頑張れば何とかなる」
「自分が何とかしなければならない」
と考え続ければ、苦しくなります。
地域活動でも同じです。
会社なら、方針を決め、指示を出し、全員を一つの方向に動かすことができるかもしれません。
しかし地域では、そうはいきません。
人にはそれぞれ事情があり、価値観があり、やりたいことがあります。
一生懸命になればなるほど、人が動いてくれないことに腹が立つ。
そんな場面を私自身も何度も見てきました。
そのとき老荘思想は、
「そこまで自分で動かさなくてもいいのではないか」
と教えてくれるような気がします。
選べるものにはニーチェ、選べないものには老荘
こう考えると、ニーチェと老荘思想は、一見正反対のようで、実は林住期には両方必要なのではないでしょうか。
私はこんなふうに整理しています。
自分で選べることについては、ニーチェ。
自分では変えられないことについては、老荘。
今日は家にいるのか、外へ出るのか。
地域活動に参加するのか。
新しいことを始めるのか。
誰と付き合うのか。
こうしたことは、自分で選べます。
そこでは、
「誰かが決めてくれるまで待つ」
のではなく、
「自分はこうしてみよう」
と決めてみる。
これはニーチェ的な態度です。
一方で、
自分の老い。
他人の気持ち。
世の中の変化。
病気や死。
こうしたものは、自分だけではどうにもできません。
そこまで自分の意思で支配しようとせず、
「まあ、そういうこともある」
と受け入れていく。
こちらは老荘的な態度です。
「諦める」と「自律する」は反対ではない
日本語では「諦める」という言葉は、あまりよい意味で使われません。
しかし、林住期ではとても大切な言葉ではないかと思っています。
すべてを諦めるという意味ではありません。
自分で変えられないものについては諦める。
そのかわり、
自分で選べるものについては、自分で決める。
この二つは矛盾しません。
むしろ、変えられないものを手放すからこそ、自分で選べるものに力を使えるのではないでしょうか。
若いころは、人生を広げていく時期だったのかもしれません。
林住期は、少しずつ余計なものを手放しながら、それでも最後まで残る「自分で選べる部分」を大切にする時期なのだと思います。
今日一日を自分で決める
では、定年退職した後、何を頼りに生きればよいのでしょうか。
あまり壮大な答えを見つけなくてもよいように思います。
人生の目的を決める。
生きがいを見つける。
社会に貢献する。
そう考えると、また新しい宿題が生まれてしまいます。
それよりも、
「今日は何をしようか」
というところから始めてもいい。
散歩をする。
本を読む。
地域の集まりに顔を出す。
資格の勉強をする。
孫と遊ぶ。
一人で喫茶店に行く。
何もしない。
そして、
「今日はこれでよかった」
と思えれば、それで十分な日もあります。
誰かに評価される必要はありません。
ただ、自分で選んだという感覚だけは残る。
林住期の自律とは、そんな小さなものなのかもしれません。
林住期の二つの杖
宗教という絶対的なよりどころを持たず、道徳も世間の常識も絶対ではない時代。
毎日が自由時間になった私たちは、何を頼りに歩いていけばいいのでしょうか。
一本の杖だけを探さなくてもよいのではないでしょうか。
自分で選べることには、
「自分はどう生きたいのか」
と考えるニーチェの杖。
自分ではどうにもならないことには、
「無理に動かそうとしなくてもいい」
と考える老荘の杖。
二本あれば、少し歩きやすくなるかもしれません。
自分の人生を全部思いどおりにしようとしない。
しかし、自分で選べることまで他人任せにはしない。
変えられないものは手放し、選べるものは引き受ける。
そんな生き方が、林住期の自律に近いように思います。
