高校時代、私はサッカー部に所属していました。決して上手な選手ではなかったですが、部員数が少ないので、2年生の夏以降にはレギュラーになっていました。ところが、ようやく試合に出られるようになったときに足を怪我し、大会に出られなくなりました。悔しくて、毎晩一人で泣いていました。
一か月ほどたったころ、突然、頭に電気が走ったように思いました。
「そうだ。チームが勝ち進んで全国大会に出れば、そのころには怪我も治っている」
県大会の一、二回戦で負けるようなチームでしたから、現実的には全国大会へ行けるはずがありません。しかし、その瞬間は何の疑いもなく、付き物が取れたように頭がはっきりし、それ以来泣かなくなりました。実際には一回戦で負けましたが、不思議なことに落胆もしませんでした。
その後、部活動を引退して受験勉強が本格化すると、まったく集中できなくなりました。同じような問題を繰り返し解いて、人生にどのような意味があるのだろうと思ってしまうのです。ただし、当時の私に「何のために生きるのか」と哲学的に考える意識があったわけではありません。単に、それまで自分を動かしていた目標や意味を失っていたのだと思います。
指定校推薦で建築学科へ進学できましたが、大学時代は勉強もせず、パチンコばかりしていました。将来の目標も夢もなく、完全な空白の時期でした。
少しだけ心が動いたのは、研究室を選ぶときです。デザインや構造といった建築の中心分野ではなく、建築経営を扱う研究室を選びました。建築は、会社の事業計画や個人の資金計画など、経済的な裏付けがあって初めて実現します。都市全体を上から計画することより、一人の人間や一つの会社の現実から、建築がどのように成立するのかに興味を持ったのだと思います。
大学卒業時はバブル期で、一部上場のマンションデベロッパーからも多くの求人がありました。それでも、同級生の中で私だけが中小のデベロッパーを選びました。
その会社では、一般的な分業制を取らず、チームで専有面積、間取り、価格などの事業計画を立て、販売計画、広告、営業、購入者の住宅ローン、資金回収まで担当しました。売れなかったときに設計や営業など、ほかの部署の責任にはできません。厳しい仕組みでしたが、コンセプト、ターゲット、ペルソナ、営業、広告など、事業の全体を学ぶことができました。
また、仕事をするには地域に出なければならないという考えから、社員に町内会、子供会、マンション管理組合、ボランティアなどへの参加を求め、地域活動手当まで出す会社でした。私が惹かれたのは会社の規模ではなく、企画から結果まで全体に関われること、チームで役割を持つこと、個人の暮らしと地域の中で仕事を考えることだったのでしょう。
一方で、私は仕事に意味や面白さを感じると、深く入り込みすぎるところがあります。30歳ごろには仕事のし過ぎで、歩くのも大変になり、足の裏のしびれ、歯ぎしり、睡眠中の無呼吸などが現れました。医療機関には行きませんでしたが、自分では自律神経失調症のような状態だったと思っています。
35歳で同じ業種へ転職した後も、仕事の忙しさからうつ病になり、2年間の治療を受けました。それ以来、仕事に根を詰めすぎないようにしながら働いてきました。
高校1年生のとき、サッカー部の練習中に膝に手をついて下を向いて休んでいると、部長から言われた言葉があります。
「休むのはいい。ただ、下を向くな。試合中に下を向いていたら、近くにボールが来ても分からない。どれほど疲れていても、近くにボールが来たら動けるだろう」
「休むな」という先輩が多いなかで、休むこと自体を認めた部長の言葉は、社会人になってからも私の中に残りました。
うつ病の治療中も、無理に仕事をすることはできませんでした。しかし、頭を上げていたからこそ、自分を心配してくれる上司の存在が見えました。休むことと、周囲や社会とのつながりを切ることは違う。この経験は、私のその後の生き方に大きく影響したと思います。
2002年には、定年退職者が現役時代の能力を地域で生かすNPOの設立理事になりました。自分が大きな成果を上げたという実感はありませんが、多くの定年退職後の男性と出会い、男性が地域へ出ていくことの難しさを感じました。設立理事で現在まで残っているのは、年齢的なこともあって私一人になりました。この長い観察が、現在の男性高齢者の孤立や地域デビューへの関心につながっています。
2010年には不動産業で独立しました。事業計画を作らずに始めたため、最初の数年はうまくいきませんでした。そこで、大手と競合しない仕事として、住宅ローンを払えなくなった人の任意売却を始めました。
事業再生コンサルタントと知り合い、案件ごとに税理士、弁護士、司法書士、不動産鑑定士、不動産業者がチームを組んで課題を解決しました。それぞれが専門能力を持ち寄る姿が「必殺仕事人」のようで、とても楽しかったことを覚えています。
私が好きなのは、単に人と集まることではありません。具体的な問題があり、それぞれに明確な役割があり、一人では解決できないことをチームで最後まで解決する。そのような「案件解決型のチーム」にいるとき、私は仕事の意味を考えずに動けるのだと思います。
以前から50歳で引退したいと思っていましたが、FIREできるほどの資産は貯められませんでした。それでも54歳のとき、お金を第一目的とする仕事をやめました。その直後に新型コロナが広がり、世界中の経済活動が縮小したことも、私にはちょうどよい区切りになりました。
その後の2年間は、大学時代とは異なるモラトリアムでした。何も見えない空白ではなく、「自分はどのような役割なら地域に入っていけるのか」を考える時間でした。不動産業者では営業と思われやすく、特に趣味もありません。毎週、行政書士と無料相談会をしていたことから、地域で役割を受け入れてもらうために行政書士資格を取ろうと思いました。
56歳で、遺言・相続専門の行政書士として事業を始めました。資格は収入を得る手段である以上に、地域へ入るための通行証でした。
1年目は相続業務を一通り経験し、地域包括支援センターの二層協議体に参加しました。2年目は有料セミナーで体系的に学び直し、自分の経験を整理して新人行政書士へ教え始めました。3年目の今年は案件拡大のために営業を増やし、若い行政書士へ仕事を依頼し始めています。
来年からは、自分がすべての実務を抱えるのではなく、相談から解決までの仕組みを作りたいと考えています。特に、困っていても相談に来ない人が、どうすれば支援につながれるのかを深く考え、実行したいと思っています。
振り返ると、私が求めてきたのは、大きな夢や肩書ではありませんでした。具体的な人の問題があり、自分の役割があり、異なる能力を持つ人たちと協力し、現実を少し動かすことでした。
ただし、全体が見える仕事ほど深く入り込み、抱えすぎる危うさもあります。これからは自分が一人で走り続けるのではなく、若い行政書士や地域の人たちへ役割を渡しながら、全体を見ていく必要があります。
私の人生を貫いているのは、「頑張り続けること」でも「いつも人の役に立つこと」でもありません。
疲れたときは休んでいい。ただ、下を向かず、周囲とのつながりまで切らない。
自分が動けないときにも、近くのボールや心配してくれる人の存在が見えるようにしておく。そして今度は、誰かが少し顔を上げたときに、相談できる人や小さな役割が見える地域を作っていく。それが、これから私が担おうとしている役割なのだと思います。
