年齢を重ねてくると、不思議なことに「増やすこと」よりも「減らすこと」に関心が向くようになってきました。
若い頃は、何かを手に入れることが前に進むことだったように思います。
仕事を覚える。資格を取る。収入を増やす。家を持つ。人脈を広げる。趣味の道具をそろえる。
そうやって一つひとつ積み上げていくことに意味がありました。
ところが、ある程度の年齢になると、積み上げてきたものが、今度は少しずつ重くなってくることがあります。
押し入れいっぱいの荷物だけではありません。
肩書や過去の成功、人との付き合い、周囲からどう見られるかという気持ち、家族への期待。
形のあるものも、形のないものも、知らないうちにたくさん抱えているものです。
最近、老子のいう「足るを知る」という言葉は、こうしたシニア期の暮らしによく合う言葉なのではないかと思っています。
筆者:正木隆雄
「足りないもの」より「もうあるもの」を見る
老子には、
「足るを知る者は富む」
という言葉があります。
たくさん持っている人が豊かなのではなく、「これで十分だ」と感じることのできる人が豊かだ、という意味に私は受け取っています。
若い頃には、なかなかそう思えませんでした。
もう少し仕事ができるようになりたい。
もう少し収入がほしい。
もう少し評価されたい。
もう少し良い暮らしがしたい。
「もう少し」が次々と出てきます。
それは決して悪いことではありません。むしろ、それが働く力になった時期もありました。
ただ、この「もう少し」をいつまでも持ち続けていると、人生の後半になっても、ずっと何かが不足しているような気持ちになるのではないでしょうか。
考えてみれば、すでに十分に持っているものもあります。
住む場所があり、毎日の食事があり、何人か話のできる人がいて、ときどき好きなことができる。
若い頃に思い描いていたほど華やかではなくても、「これくらいでいい」と思える暮らしがあります。
年齢を重ねるということは、足りないものを増やしていくよりも、すでにあるものに気づいていくことなのかもしれません。
物を減らすことは、過去を捨てることではない
終活という言葉から、多くの人が思い浮かべるのが「生前整理」ではないでしょうか。
押し入れの中の古い布団、着なくなった洋服、何十年も読んでいない本、食器、写真、趣味の道具。
いざ片づけようとすると、なかなか捨てられません。
「まだ使える」
「高かった」
「いつか使うかもしれない」
「思い出がある」
どれもよく分かります。
私自身も、物を簡単に捨てられるほうではありません。
ただ、最近は「捨てるか、残すか」という考え方だけではなく、「これからの自分に必要か」と考えると少し整理しやすくなるように思います。
昔の自分には必要だった。
でも、今の自分にはもう必要ない。
そういうものがあってもよいのではないでしょうか。
それは過去を否定することではありません。
むしろ、「今までありがとう」と役割を終えてもらうことに近い気がします。
十年前の自分と今の自分は違います。
生活も違えば、興味も体力も違う。
そうであれば、持ち物が変わるのも自然なことです。
生前整理というと、家族に迷惑をかけないための片づけという説明をよく聞きます。
もちろん、それも大切でしょう。
けれど私は、それだけでは少し寂しいと思っています。
生前整理は、亡くなった後のためだけにするものではありません。
これから自分が暮らしやすくするためにするものでもあると思うのです。
探し物が減る。
掃除が楽になる。
本当に好きなものが分かる。
部屋に少し余白ができる。
それだけでも十分意味があります。
肩書も、いつかは脱いでいくもの
物以上に手放しにくいものがあります。
それが「肩書」なのかもしれません。
長い間仕事をしていると、「会社員の自分」「管理職の自分」「先生と呼ばれる自分」といったものが、自分そのもののようになってきます。
退職すると、名刺がなくなります。
会社の肩書もなくなります。
それまで毎日のように電話がかかってきた人が、急に静かになることもあるでしょう。
これはかなり大きな変化だと思います。
けれど、老子の考え方から眺めると、肩書もまた、その時々に与えられた一つの役割なのではないかと思えてきます。
役割ですから、始まりがあれば終わりもあります。
「以前は何をしていたか」よりも、「今、この場所でどんな役割があるか」。
そんなふうに考えられれば、少し楽になるのではないでしょうか。
シニア期には、大きな肩書がなくても、小さな役割はいくつもあります。
家族の中での役割。
地域での役割。
近所づきあいの中での役割。
友人との間での役割。
何か立派なことをしなくても、そこにいることで成り立つ役割もあります。
肩書がなくなることは、役割がなくなることとは違うように思います。
過去の成功も、そろそろ棚に置いていい
もう一つ手放しにくいのが、過去の成功です。
「あの頃は忙しかった」
「昔は部下が何十人もいた」
「若い頃はこんな仕事をしていた」
それも自分の大切な歴史です。
ただ、過去の成功があまりに大きくなると、現在の自分と比べてしまいます。
昔はできたのに、今はできない。
昔は頼られたのに、今は誰も頼ってこない。
そうすると、せっかくの成功体験が、現在の自分を苦しめるものになってしまいます。
老子は、水のような生き方を大切にしました。
水は形を決めません。
丸い器に入れば丸くなり、四角い器に入れば四角くなります。
流れる場所によって姿を変えていきます。
人も同じなのかもしれません。
五十代には五十代の役割があり、六十代には六十代の役割があり、七十代、八十代になればまた違った役割がある。
昔の形を保ち続けなくてもよい。
私は、この考え方がとても気に入っています。
人への期待を少し減らしてみる
物や肩書だけでなく、人間関係にも「持ちすぎ」があるように思います。
その一つが、人への期待です。
子どもなら、これくらいしてくれるだろう。
長く付き合ってきた友人なら分かってくれるだろう。
自分がこれだけしてきたのだから、相手も何か返してくれるだろう。
期待すること自体は自然です。
ただ、期待には不思議なところがあります。
期待した通りになれば当たり前に感じ、期待した通りにならないと不満が残ります。
そう考えると、期待というものは案外、自分の心を重たくするものなのかもしれません。
「してくれるはず」を少し減らす。
そして、何かしてもらったら「ありがたい」と思う。
言葉にすると簡単ですが、実際にはなかなか難しいことです。
私にもできているとは思いません。
ただ、「相手は相手、自分は自分」と少し距離を置くだけで、人間関係が楽になる場面は確かにあるように感じています。
人間関係にも整理があっていい
長い人生の中では、人との関係も変わっていきます。
学生時代の友人。
職場の仲間。
仕事上の付き合い。
地域の人。
趣味の仲間。
昔はよく会っていたのに、今ではほとんど会わない人もいます。
それを「寂しいこと」と考えることもできます。
けれど、関係が変化することも自然な流れなのではないでしょうか。
無理に昔と同じ関係を続けようとしなくてもよい。
反対に、年齢を重ねてから新しく知り合った人との関係を大切にしてもよい。
ここでも水のように、形を変えていけばよいのだと思います。
人間関係の整理というと、縁を切るような強い言葉に聞こえます。
そうではなく、「無理をしない関係にする」くらいでよいのではないでしょうか。
会いたければ会う。
少し疲れるなら距離を置く。
また話したくなれば連絡する。
それくらいの緩やかな関係が、シニア期にはちょうどよいように思います。
終活は「残り時間を整えること」
私は仕事柄、終活や遺言、相続について話す機会があります。
終活という言葉には、どうしても「死ぬ準備」という印象があります。
けれど、最近は少し違うように考えています。
終活とは、残された人のためだけに行うものではなく、自分のこれからの時間を整える作業でもあるのではないでしょうか。
物を少し減らす。
預貯金や不動産を整理する。
必要な書類をまとめる。
付き合い方を少し見直す。
家族への期待も少し軽くする。
そうすると、最後に残るのは「本当に必要なもの」です。
それは意外に少ないのかもしれません。
気に入った椅子。
何冊かの本。
気の合う人。
ときどき行きたい場所。
毎日のちょっとした楽しみ。
それくらいで、案外十分なのではないでしょうか。
「持たない」のではなく「抱えすぎない」
老子の「足るを知る」という言葉を、私は「何も欲しがってはいけない」という教えだとは思っていません。
好きなものを買ってもいい。
旅行に行ってもいい。
新しいことを始めてもいい。
ただ、必要以上に抱え込まない。
物も、人も、肩書も、過去も。
そして必要がなくなったら、少しずつ手放していく。
そうすると、その分だけ心に余白ができるのではないでしょうか。
若い頃は、両手いっぱいに何かを抱えることが人生だったのかもしれません。
でも人生の後半は、少しずつ手を空けていく。
手が空けば、また別のものを受け取ることもできます。
道端の花を眺める時間かもしれません。
誰かとの何気ない会話かもしれません。
これまで気づかなかった小さな楽しみかもしれません。
「もっと持つ」ことから「これで足りる」へ。
老子の言葉を読みながら、シニア期にはそんな方向へ少しずつ暮らしを変えていくのも悪くないな、と私は思っています。
