「暮れなずむ」という言葉を聞くと、海援隊の「贈る言葉」を思い出す人も多いのではないでしょうか。
私にとってこの言葉から浮かぶのは、夕方の駅です。
仕事を終えた人たちが駅へ向かい、ホームには少し疲れた顔が並ぶ。駅前の飲み屋には赤ちょうちんが灯り始め、まだ家に帰るには少し早いのか、カウンターで一杯だけ飲んでいる人もいる。
空にはまだ昼の明るさが残っているのに、街には少しずつ夜の気配が混じってきます。
昼でもない。夜でもない。
仕事の時間でもない。家庭の時間にも、まだ完全には戻っていない。
私は、この時間が昔から好きでした。
昼と夜のあいだにある時間
「暮れなずむ」とは、日が沈み始めているのに、なかなか完全な夜にならない状態を表す言葉です。
昼から夜へ移る、その途中にある曖昧な時間です。
現代の生活は、こうした曖昧な時間をあまり好まなくなったように感じます。
朝は仕事の準備をし、昼は働き、夕方になれば帰宅する。予定表には時間が区切られ、空いた時間があれば、何か有効なことをしようとします。
最近は「朝活」という言葉も定着しました。
朝早く起きて運動する。本を読む。勉強する。仕事をする。
確かに朝は頭もすっきりしていますし、一日を有効に使うにはよい時間です。
ただ、人生後半になってまで、すべての時間を「有効活用」しなくてもよいのではないかと思うこともあります。
特にシニア期には、何かをするためではなく、ただ時間に身を任せることも、一つの豊かさではないでしょうか。
赤ちょうちんの一杯
昔の会社員には、仕事帰りになじみの店で「ちょっと一杯」という文化がありました。(上司の悪口を言う同僚との飲み会ではありません。)
酒を飲むこと自体を勧めたいわけではありませんが、あの時間には不思議な意味があったように思います。
会社を出たからといって、すぐ家庭人になるわけではありません。
頭の中には仕事が残っています。
そこで駅前の店に入り、ビールを一本飲む。
なじみの客とくだらない話をすることもあれば、一人で静かに飲むこともある。
会社員から、一人の人間に戻っていく。
そして家に帰れば、夫であったり父親であったり、一人暮らしなら自分自身の生活へ戻っていく。
赤ちょうちんの一杯は、仕事と家庭の「あわひ」だったのかもしれません。
効率のための切り替えというより、ただ少し漂っている時間です。
私は、その「どちらでもない時間」が大切なのだと思います。
人生には「あわひ」がたくさんある
考えてみれば、人生には「あわひ」がたくさんあります。
朝と昼のあいだ。
昼と夜のあいだ。
仕事と家庭のあいだ。
子どもと大人のあいだ。
現役と引退のあいだ。
元気な高齢者と、支援を必要とする高齢者のあいだ。
誰かと暮らす時間と、一人で暮らす時間のあいだ。
私たちは物事を分かりやすく分類したがります。
現役か退職か。
健康か病気か。
働いているか、働いていないか。
役に立っているか、立っていないか。
けれど、実際の人生はそんなにはっきり分けられません。
むしろ、その中間にいる時間のほうが長いのかもしれません。
「あわひ」とは、単なる中間地点ではなく、前の世界から次の世界へ移る途中の時間です。
まだ何者でもなくてよい時間とも言えます。
林住期は、暮れなずむ時間に似ている
定年退職した男性から、「毎日が日曜日になった」という話を聞くことがあります。
最初は嬉しい。
朝寝坊してもいい。通勤もしなくていい。会議もない。
ところが、しばらくすると落ち着かなくなる。
今日は何をしよう。
明日は何をしよう。
何か予定を入れなくてはいけない。
そこで資格の勉強を始めたり、地域活動を始めたり、趣味の予定を詰めたりします。
それも悪くありません。
ただ、不安なのは「時間が余っていること」ではなく、「何もしない時間の過ごし方を知らないこと」なのかもしれません。
会社では、時間には常に目的がありました。
1時間あれば、1時間分の仕事をする。
予定のない時間は空白でした。
その感覚のまま定年を迎えると、自由時間は意外に重たく感じます。
だから、つい予定を埋めたくなる。
けれど人生後半では、空白を埋めることより、空白と一緒にいられることのほうが大切になっていくような気がします。
私は、林住期は暮れなずむ時間に少し似ていると思います。
現役時代という昼を終え、まだ老いの夜には入っていない。
その途中にいる時間です。
まだできることはたくさんある。
一方で、若い頃と同じ速さで走り続ける必要もありません。
少し立ち止まることもできます。
寄り道もできます。
誰かと一杯飲むことも、一人で街を眺めることもできます。
夕暮れには答えがない
私は夕方の乗換駅が好きです。一度降りるという行為があるからです。
仕事帰りの人。
買い物袋を持った人。
学校から帰る学生。
飲み屋に入っていく人。
駅のホームへ急ぐ人。
みんな、それぞれの一日を背負っています。
昼の顔から夜の顔へ。
仕事上の役割から、一人の人間へ。
その境目を、多くの人が行き交っています。
だから夕暮れの駅は、少しだけ人生そのものに似ています。
みんな途中にいる。
誰も完全には落ち着いていない。
それでも、それぞれの場所へ向かっていく。
若い頃は、こうした曖昧な状態が苦手だったように思います。
早く答えを出したい。
どちらかを選びたい。
前へ進みたい。
でも年齢を重ねると、世の中には答えの出ないことがたくさんあると分かってきます。
人間関係もそうです。
老いもそうです。
家族のこともそうです。
これからの生き方もそうです。
答えを急がない。
白か黒か決めない。
そのまま置いておく。
それも人生後半の知恵なのかもしれません。
「今」を味わう時間
人生後半になると、「残された時間」という言葉を耳にすることがあります。
確かに時間は有限です。
だからこそ大切にした方がいい。
でも、限られているからといって、全部を有効に使う必要はないと思います。
夕暮れの三十分。
喫茶店で飲む一杯のコーヒー。
居酒屋のカウンターで飲む一本のビール。
川沿いを歩く時間。
電車を一本遅らせて、駅前を眺める時間。
そこから何かが生まれなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
ただ、その時間を味わう。
若い頃は、時間は未来のために使うものだと思っていました。
勉強する。
働く。
貯める。
準備する。
けれどシニア期になったら、少しずつ「今」に時間を使ってもよいのではないでしょうか。
これまでと、これから。
その「あわひ」にある今を生きる。
暮れなずむ街を眺めながら、一杯飲む。
今日も一日が終わっていく。
明日もまた来る。
それくらいでいい夕方があってもいいと思います。
朝の時間を有効に使うことも大切です。
でも、夕暮れの何もしない時間を、ゆったりと使いこなす。
それも大人になるということなのかもしれません。
そして私は、そんな時間こそ、シニア期になって少しずつ手に入る、贅沢な「あわひ」なのではないかと思っています。
