年齢を重ねると、経験が増えます。
仕事で経験したこと、人付き合いの中で学んだこと、失敗して覚えたこと。若いころには分からなかったことも、少しずつ分かるようになります。
それは、年齢を重ねることの大きな財産だと思います。
ところが、その経験がときどき人間関係を難しくすることがあります。
「私はこうやってきた」
「普通はこうするものだ」
「それではうまくいかない」
「もっとこうしたほうがいい」
本人は親切のつもりでも、いつの間にか自分の経験や価値観を相手に押しつけてしまう。
私自身も気をつけなければいけないことだと思っています。
著者:正木隆雄
正しいことを言えば、うまくいくとは限らない
人との関係で難しいのは、こちらが間違っているから争いになるとは限らないことです。
むしろ、お互いに「自分のほうが正しい」と思っているときほど、話はこじれます。
地域活動でも、
「もっと若い人を入れなければだめだ」
「今いる人たちが楽しく続けられればいい」
「きちんと組織を作ったほうがいい」
「そんなに堅苦しくしなくてもいい」
どちらにも、それなりの理由があります。
ところが話し合っているうちに、「何をしたら地域にとってよいか」ではなく、「誰の意見が正しいか」という話になってしまうことがあります。
そして議論には勝ったとしても、その人の周りから人が離れてしまったら、何のための地域活動だったのか分かりません。
正しいことを言うことと、人とうまくやっていくことは、必ずしも同じではないのだと思います。
特に男性は「私」を出しすぎないほうがいい
これは私自身、地域の活動に関わっていて感じることですが、特に仕事を離れた男性には少し注意が必要なのかもしれません。
長く会社や組織で働いてきた人には、それぞれ経験があります。
部下を持っていた人もいるでしょう。
会議で意見をまとめてきた人、計画を立ててきた人、数字を管理してきた人、技術の世界で長く仕事をしてきた人もいます。
その経験はもちろん貴重です。
しかし、地域に入った途端、それまでの肩書や仕事上の立場はなくなります。
そこにいるのは「元部長」でも「元社長」でも「元専門職」でもなく、近所に住んでいる一人の人です。
ここを切り替えるのは、意外と難しいのかもしれません。
地域の集まりに初めて参加して、すぐに、
「このやり方では効率が悪い」
「組織をきちんと作ったほうがいい」
「私がいた会社なら、こうする」
「それでは人は集まらない」
と言ってしまう。
本人に悪気はなく、むしろ自分の経験を役立てようとしているのでしょう。
けれど、長くそこで活動してきた人からすれば、
「入ってきたばかりなのに」
と思うかもしれません。
私も、地域活動に慣れないうちは、少しくらい物足りなく感じても、「私」を出しすぎないほうがよいように思います。
まずは、その場を見る。
人の話を聞く。
どういう人がいて、誰が何を大切にしていて、これまでどんな経緯があったのかを知る。
意見は、人から
「どう思いますか」
と聞かれたら言うくらいでもいい。
少なくとも最初のうちは、そのくらいのスタンスのほうが地域になじみやすいのではないでしょうか。
会社と地域では、物差しが違う
会社では、効率や成果が求められます。
会議なら結論を出すことが大切ですし、仕事なら期限までに成果を上げなければなりません。
問題があれば原因を探し、改善策を考える。
それが仕事では当たり前でした。
ところが、地域は少し違います。
一見すると無駄に見えるおしゃべりにも意味があります。
なかなか結論が出ない話し合いにも意味があることがあります。
効率が悪くても、みんなが納得してゆっくり進むことのほうが大切な場合もあります。
「そんなやり方では進まない」
と思ったとしても、その「進まなさ」が人間関係を保っていることもある。
会社で身につけた物差しを、そのまま地域に持ち込まない。
これは、仕事を離れた後の男性にとって、一つの大切な切り替えなのではないかと思っています。
老子の「水」のように
老子は、水を大切なものとして見ています。
水は柔らかく、自分の形を持ちません。
丸い器に入れば丸くなり、四角い器に入れば四角くなります。
低いところへ流れ、自分から高い場所を争うこともしません。
私は、この水の姿が、地域での人付き合いにも通じるように感じます。
自分をなくすということではありません。
意見を持ってはいけないということでもありません。
ただ、自分の考えを最初から前に出すのではなく、まずその場に合わせてみる。
「ここでは、どんなやり方をしているのだろう」
と見る。
そして、自分にできることが見えてきたら、そこに少し力を貸す。
水が器に合わせて形を変えるように、自分もその場に合わせて役割を変えていく。
それでいいのではないでしょうか。
「教える人」にならなくてもいい
仕事で長い経験を積んできた人ほど、何かを教えたくなることがあります。
もちろん、求められれば、その経験は大きな力になります。
しかし、地域では必ずしも「教える人」になる必要はありません。
椅子を並べる。
お茶を運ぶ。
初めて来た人に声を掛ける。
重い荷物を少し持つ。
話を聞く。
そんな小さな役割もあります。
むしろ、そのようなことを自然にしているうちに、
「あの人は以前、こんな仕事をしていたらしい」
ということが分かってきて、
「それなら、ちょっと相談に乗ってもらえませんか」
と声が掛かることもあるでしょう。
そのとき初めて、自分の経験を使えばいい。
私は、そのくらいがちょうどよいように思います。
自分から「私はこれができます」と前へ出るより、求められたときに少し力を出す。
それも、老荘思想のいう「無為」に近い姿なのかもしれません。
何もしないのではなく、無理に自分から動かそうとしない。
必要なときに、必要なだけ働く。
そんな関わり方です。
「そういう考え方もある」と置いておく
年齢を重ねるほど、
「それは違うだろう」
と思うことは増えるかもしれません。
自分ならもっと上手にできる。
もっと効率のよい方法を知っている。
以前、似たようなことを経験した。
そう思う場面もあるでしょう。
けれど、そのたびに訂正しなくてもいいのだと思います。
「そういう考え方もあるんだな」
と置いておく。
賛成する必要はありません。
自分の考えを変える必要もありません。
ただ、相手には相手なりの経験と事情があります。
こちらが何十年生きてきたように、相手も何十年かの人生を生きてきています。
そう考えると、簡単に「あなたは間違っている」とは言えなくなります。
「折れる」と「負ける」は違う
私たちは、ときに意見を引っ込めることを「負けた」と感じます。
しかし、地域活動に勝ち負けは必要なのでしょうか。
「今回はその方法でやってみましょう」
「私は少し違う考えですが、それでもいいと思います」
「皆さんがそう考えるなら、それでやってみましょう」
こう言えることは、弱さではないと思います。
老子の思想には、柔らかいものが固いものに勝つという考えがあります。
固い木は強い風で折れることがありますが、柳は風に合わせてしなります。
人も同じなのかもしれません。
自分の考えを守ることばかり考えるより、少し曲がれるほうが、長く人と付き合っていけます。
地域で新しい役割を見つける
仕事を離れると、それまでの役割がなくなります。
最初は少し寂しく感じる人もいるかもしれません。
けれど、地域には会社とは違った役割があります。
誰かの上に立つ役割ではありません。
先頭に立ってみんなを引っ張る役割でもありません。
ある日は話を聞く人。
ある日は机を運ぶ人。
ある日は知っていることを少し教える人。
ある日は黙って座っている人。
その場によって役割は変わります。
決まった肩書を持たず、そのとき必要な役を引き受ける。
それくらい自由なほうが、シニア期には合っているように思います。
仕事では「自分は何者か」を示す必要がありました。
けれど地域では、それほど「私」を示さなくてもいい。
自分を前に出さなくても、そこにいて、必要なときに少し力を貸す。
そんな人のほうが、いつの間にか周りから頼りにされていることがあります。
勝たなくてもいい。
自分の正しさを証明しなくてもいい。
意見を求められたら、そのとき静かに話せばいい。
水のように、その場に合わせて形を変えながら、自分にできる役割を見つけていく。
仕事を離れた後の地域との付き合い方として、私はそんな生き方もいいのではないかと思っています。
