「もう頑張らなくていい」と言われても、私は、何もせずに静かに暮らすことがシニア期の理想だとは思いません。一方で、いつまでも目標を掲げ、成長や成果を求め続けることだけが、充実した生き方だとも思いません。
人生の後半をどう生きるかを考えるとき、「自己実現」や「自分らしさ」という言葉がよく使われます。しかし、私には少し力の入った言葉に聞こえることがあります。自分の中にある何かを見つけ、それを完成させなければならないように感じるからです。
また、「人の役に立つことが生きがいになる」ともいわれます。もちろん、誰かに喜んでもらえればうれしいものです。ただ、人の役に立てなければ自分の価値がない、ということでもないはずです。
私が最近しっくりくるのは、「その時々の環境の中で、自分なりの役割を持つ」という考え方です。
筆者:正木隆雄
役割は自分だけで決めるものではない
役割というと、責任や義務を背負うような印象があるかもしれません。しかし、ここでいう役割は、会社から与えられる役職のような固定されたものではありません。家族の中、仕事の場、地域の集まり、友人との関係など、それぞれの場面で自然に生まれる立ち位置のようなものです。
ある場所では話をする人になり、別の場所では人の話を聴く側になる。知っていることを伝える日もあれば、何も知らない者として教えてもらう日もあります。会議を進めることもあれば、黙って場を見守ることもある。どれか一つが本当の自分で、ほかは仮の姿ということではありません。その場に応じて現れる、どれも自分の役割なのだと思います。
若い頃には、職業や家庭内の立場によって役割が比較的はっきりしています。けれども、退職したり、子どもが独立したり、家族構成や健康状態が変わったりすると、それまでの役割は終わったり、小さくなったりします。そのとき、「役割を失った」と考えると、心に大きな空白が生まれます。
しかし、以前の役割が終わったからといって、役割そのものがなくなるわけではありません。環境が変われば、役割も変わります。大切なのは、以前と同じ役割にしがみつくことではなく、今いる場所で自然に生まれてくる新しい役割に気づくことではないかと思います。
行政書士資格を取った理由
私は50代に行政書士の資格を取り、現在は遺言や相続、終活などに関わる仕事をしています。しかし、資格を取ったのは、収入を得るためでも、事業を大きくするためでもありませんでした。初めから地域での役割を思い描き、それに向かって進んできました。
資格を持って地域や高齢者福祉の場に関わるうちに、さまざまな役割を担うようになりました。行政書士として相談を受けることもあれば、難しい制度を分かりやすく伝えることもあります。セミナーで話すことも、地域の話し合いで進行役を務めることもあります。困りごとを直接解決するのではなく、必要な人や制度につなぐ役になることもあります。
そこでは、いつも「行政書士の先生」として振る舞っているわけではありません。専門知識を使う場面もありますが、一人の地域住民として話を聴く場面もあります。自分が答えを出すのではなく、皆で考えられるように場を整えることもあります。同じ資格を持つ自分であっても、置かれた環境によって役割は自在に変わります。
振り返ってみると、資格は自分の価値を証明する看板ではなく、いくつもの役割を演じるための道具だったのかもしれません。資格を取った時点では、方向は決めましたが、今のような関わり方を想像していませんでした。目の前に現れた場に関わるうちに、役割が少しずつ形になってきたのです。
無為自然と「役割を演じること」
老子の「無為自然」は、一般には、作為を加えず自然の流れに沿って生きることだと説明されます。「無為」という言葉からは、何もしないことを連想しがちですが、私は、無理に自分をつくろうとしないことではないかと受け止めています。
「第二の人生では、これを成し遂げなければならない」「退職後も社会で活躍しなければならない」と、自分に新しい目標を課す必要はないと思います。反対に、「もう年だから何もしなくてよい」と、すべての関わりから離れる必要もありません。目の前の環境や人との関係から役割が生まれたとき、無理のない範囲でそれを引き受けてみる。その役割が終われば手放し、次の環境では別の役割を演じる。私は、その柔らかさが無為自然に近いのではないかと思います。
役割を演じるというと、本当の自分を隠すように聞こえるかもしれません。しかし、人は誰でも、場面によって違う顔を持っています。家庭では家族の一員であり、地域では近所の人であり、仕事では専門家になります。どの顔も、その人の一部です。一つの肩書や役割だけを「本当の自分」と決めなければ、役割が変わることを必要以上に恐れずにすみます。
水のように形を変える
老子は、水のあり方を好ましい生き方に重ねています。水には決まった形がありません。丸い器に入れば丸くなり、四角い器に入れば四角くなります。低いところへ流れ、障害物があれば争わずに回り込みます。それでいて、水そのものではなくなるわけではありません。
人の役割も、水に似ているように思います。働いている間は仕事上の役割が大きく、退職すれば地域や家庭での役割が少しずつ大きくなるかもしれません。健康なときには誰かを支える側だった人が、体調を崩せば支えてもらう側になることもあります。しかし、支えてもらう側にも役割があります。助けを受け取り、「ありがとう」と伝えることで、相手が力を発揮できる場をつくるからです。
もっとも、そこにまで「人の役に立たなければ」という意味を持たせる必要はないでしょう。役割は、人間の価値を測る物差しではありません。大きな役割も小さな役割もあり、しばらく何の役割も感じられない時期もあります。それでもよいのだと思います。役割は無理に探して獲得するものではなく、人や場所との関係の中で、後から見えてくることがあるからです。
頑張ることを目的にしない
私にとって「もう頑張らなくていい」とは、努力をやめるという意味ではありません。頑張ること自体を人生の価値にしなくてもよい、ということです。必要な場面では力を出し、役割を終えたら力を抜く。自分が前に出る場面もあれば、ほかの人に任せる場面もある。その切り替えができれば、年齢を重ねても無理なく人や社会と関わり続けられるように思います。
行政書士として仕事をする自分、高齢者福祉の場で話をする自分、地域の話し合いを進める自分、誰かの話をただ聴く自分。私は今、それぞれの場で、それぞれの役割を演じています。この先、環境が変われば、今の役割を手放す日も来るでしょう。そして、そのときには別の役割が生まれるかもしれません。
人生の後半に必要なのは、揺るがない「自分らしさ」を完成させることではなく、環境に合わせて自分の役割を変えられる柔らかさなのではないでしょうか。自分から無理に何者かになろうとせず、目の前に現れた役割を、できる範囲で引き受けてみる。そして、役割が終われば静かに降りる。
私は、そんな生き方をしていけたらと思っています。
